第6章:Cクラスへの道は遠い:1999.前期-2

第六章:Cクラスへの道は遠い :`99.前期

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 エンペラー・カップのあとはうまく出られるレースがないまま、小沢峠やパインヒルズのコースを一人で走る。その他には6月17日に俺のアフリカ壮行会ということで<いぬふぐり>で奥多摩周遊道~ままごとやベロンベロン・コース。7月4日に一年振りに<CHAOS>のクラブ・ランに参加させてもらい、多摩湖~小沢峠~瑞穂・昼食~多摩湖のコース。翌5日に打ち合わせの為Amanda号で吉祥寺まで往復したのを最後にアフリカへ。「アフリカ紀行」に詳細があるが、ザンジバル以外では治安が悪く脚で歩くことがなかったため、部屋で腕立て伏せをやるぐらいで運動不足。しかし、しっかりTourDeFrance の放送はあった。日本では5回のオムニバスだったが、ナイロビでは延々何時間も実況している日もあった。ヨハネスブルグでは毎日四十分位の放送があり、スポンサーはホンダでCMカット無しだぞ。なんて日本は遅れてるんだ、と思ったがその層の薄さのお陰で自分ぐらいのレベルでもレースに出てられるのかも知れないとも思う。
 帰国後8月あたまからちゃんと乗り始めた。しかしなまった脚と異常に暑いこの夏はこたえる。アフリカは暑かったろう、とよく言われたがあちらは一応冬だったから特に最後の南アなんて寒かったくらい。ローラーを2日ばかりやってから4日に久々に外を走る。25kmか16kmを一区切りにしてそれを2回やっていたコースなのだが、上りがきつくて10km足らずでダウン。休んでなんとかもう6、7kmやってから帰るがバテバテだ。こんな有り様で月末の乗鞍までに復調できるだろうか。
 8月16日~20日<いぬふぐり>合宿。皆より一日遅れで17日の午前中、富士見パノラマ・スキー場で合流。ワカモノ、少年達はダウンヒルに興じる中、会長車にタープを張ってテーブルを広げタマさんは豚汁の下ごしらえ、会長はヤキソバの準備なんぞをしておる。到着早々缶ビールを手渡されてしまう。こっちは、さあヒルクライムだっ、と意気込んできたのにどうも二人とも二日酔いらしい。そそくさと軽く食べてからロード部四人は入笠山を目指す。パノラマの駐車場からは14km程だがなかなかきつい上り。自分の調子のバロメーターにしようとしたタマさんは全然手応えなく、単独行で1時間12分。6分程して会長とタマさんが一緒に現れる。こりゃあ相当ダメだ。3人で下るが途中後輪がパンク。極く小さいガラス片を踏んでいた。チューブ交換して汗だくで空気を入れるが、御存じない方も多いだろう、ロードレーサーの空気圧は高い。7~9気圧入れる。だいたい乗用車で 2・2 気圧だから車用のコンプレッサーでは全然ダメなぐらいだ。これを携帯ポンプで入れるのは非常に辛い。肘の関節がガクガクに痛くなる。しかし二人は、オレのポンプの方が良く入りそうだな、等と論評しつつ各々のデジカメで修理姿を撮影なんかしちゃってて全く手伝おうとしない。おまけにタマさんは、穴のあいたチューブを商売柄きれいに巻いて箱に入れておいてくれたので、俺はその後しばらく新品だと思い込んでずっとスペアとして携行していたのだ。
 2日目は主目的の乗鞍ヒルクライム大会に備えたコース試走だ。昨年は試走1:34:31、本番1:23:42 だったから本番で20分を切る為にもなんとか今日は 1:30:00 はクリアしたい。しかし思いは虚しく空回り、1時間36分もかかってしまったではないか。思えば去年は試走時本番ともに曇天、本日はピーカン。その差なのだろうか。おまけにもっとショックだったのは、会長の次男・悠輝にあのマルイシ・スリッパ号を貸与したのだが始めてロードに乗ったというのに、小柄な中2の彼(陸上部)は俺とタマより10分も速かったのだ。荒れました。3日目はプール遊び(雨)。4日目はバラバラ。午前中蓼科の本拠地から一旦10km 下って芹が沢というところから引き返し麦草峠ピークを目指す。20km強を1時間29分23秒かかった。午後同じルートを走ったタマさんが俺より7秒遅かったのでその日は少しウレシかった。しかし悠輝に貸したマルイシで走っていたのでフクザツ。一体今までモゼールにかけた手間とゼニはなんだったの?

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 8月29日、乗鞍本番。7:47出走だが7時過ぎには集合場所の駐車場はすごいヒトで、会長と並びに行くが既に後ろの方だ。今年の四十代クラスは500人以上のエントリー(昨年350)なので、こりゃあスタート号砲から実際に動き出すまで1分ぐらいかかる。せめて2クラスに分けて欲しい。今日もピーカンではるかかなたまで上が見える。遠い(会長のページの写真参照)。トイレに行っていて遅く来たタマさんが脇の方をスイマセン、なんて頭を下げながらずりずりと前の方に移動していった。くそー。なんだかんだとばか話をしてるうち、シュ~というエアの抜ける音がどこからか聞こえる。「あれ、パンクした奴いるんじゃないか?イヤだねえ。」などと言っているとナント俺の前輪がペチャンコではないか。一瞬にして奈落の底へ落とされた俺はもう動転してしまい、会長に「車のキイを貸してくれ!!」と叫んだものの、この人ごみをかき分けてずっと向こうの車まで行って修理してスタートに間に合うだろうか、ああもうリタイアか、とあたふた。すると「ここでチューブ交換しちゃえよ」との会長のお言葉、はっ、と我にかえる。いつものレースと違って道中長いからサドルバッグも小型ポンプも装着していたんじゃないの。で、ばたばたとチューブを替えエアを入れる。この時ばかりは入笠山のパンク時とは違い、会長が随分ポンプを押してくれて助かった。さて、スタート、相撲で言う「恩返し」にならって「会長、頑張ります」とさっさと先行させていただく。今回は軽量化(工具やポンプを付けているのも変だが)と上り対策でフロント・ギアを38T1枚にしディレイラーも取り外した。リアスプロケットもアフリカ以来なかなか戻らない脚力を考え軽い12~27Tにした。しかし楽な27Tをつい多用してしまい、結果としては遅くなってしまったようだ。16、7Km地点でそれまで何度も離したり離されていたマークしていた選手を抜き去り、いいペースになって来た矢先、きつくなった所で両側の選手が同時に俺の方によろけて来て避けきれず、右のやつの左ペダルがこちらの前輪のスポークの間に入ってしまいゴロンと転倒してしまう。しかもコケたのは俺だけで、二人は謝りながら行ってしまった。とほほ。さっき抜いたマークしていたやつにも一群になって抜き返され、すぐ走り出し抜いたもののペースが乱れてしまった。1時間10分位のところで、これはもう昨年を上回るのは無理だと気付くがスタート前の混乱を思えば走れているのがありがたいのだと負け惜しみっぽく己を励ます。22kmのゴール地点でも失策。器械計測の関係でゴール前で左右に2コースに分けられ、せばまって追い越し禁止になるのだがきつい左カーブがある。内回りの左は距離が短いが勾配はきつい。右を行くのが当然なのだが前に遅いやつが現れ右に行ったものだからつい左に入った。するとカーブで失速したもっと遅いのが立ちはだかったのだ。パイロンの間から右に出ようかと思ったが失格になってしまっては元も子も無いので断念。悪あがきに過ぎないが。結果は1時間30分09秒、去年よりも6分半も遅い。順位も52位から104位と大幅後退。しかしこの悔しさをバネに後期をぐわんばるのだ!!