●7-4●
次なるレースもまた上りだ。11月6、7日の<第3回武尊(ほたか)ヒルクライム>。どんなものなのか知らなかったが「ゴール直前 20%150m の急坂を Ride On できるか!!」という、恐ろし気なコピー付きで、日本のロードレースでは最大傾斜、とまで書いてある。規模も分からずいささか不安を抱きつつ、通い慣れた川場村を経由して受け付けの武尊牧場に昼前到着。なんだか閑散としている。出走リストをもらうと、40代 Cクラスはなんと6名しかいない。入賞を意識して密かにキンチョー・コーフンする。全体では60名ぐらい。1時前に3km下のスタート地点に自走で移動、1時過ぎからクラスごとに5分おきにスタート。とはいえ我が C は少ないので50以上の D 、年令分けのない MTB と一緒である。C には知った顔がいないので、これはひょっとしたら、と不遜なことを考えてしまう。D は上り得意の良く見る人たちだ。スタート後すぐに速い50代3人と先頭集団を形成、しかしMTB が一人凄い勢いですっ飛んで行く。龍勢でクラス優勝してたヤツだ。暫くしていつの間にか同クラスの大柄なやつが並んできて先頭になる。後ろで様子を見るが、軽量な俺のほうが有利と見て最前に出たもののちっとも引き離せない。3km地点で再び抜かれた。ここから道も狭まり勾配もきつくなる。やがて D の3人にも順に抜かれてしまう。後続は全く見えず黙々と行くが、やがて D のKさんが上に見えてきて追い付き抜き返す。JCRC で同クラスだし川場では惨敗だったので結構意識していたのだ。あとの3人はたまに遠くに背中が見えるだけで全く追いつけずに初日の8.1km を C トップから55秒遅れの29分10秒39、二位で終える。
2日目がいよいよ「Ride On できるか!!」のコースである。昨日のタイム順に一人づつ30秒間隔でスタートするT.T.形式だ。スタート手続きをしにいくと、なんと間違って30代でエントリーしていた40代のやつがダントツの C トップであることがわかった。申し込みの時点で39だったのだろう、人騒がせなこった。というワケで3位に転落。今日の4kmの距離じゃあ相手にトラブルでも起きないかぎり55秒を縮められる訳はないが、奇蹟を信じてスタート。とにかくきつい。全く気を抜けるところがない。奇蹟どころか、自分の30秒後にスタートした20代の選手に追い付かれないようにするのが精一杯だ。昨日は自分の方が速かったわけだから意地もあるのがかえって焦りになる。宣伝文句の急坂の前にも一ケ所相当きつい所があり、そのあと先のほうに例の坂を押しているのが2、3人見える。昨年も出た連中は「乗っていくか押していくか即断しないとよろけてコケる」などと言っていたし、スタッフのオバチャンも「去年はこの倍ぐらい人が来てたけど乗ってのぼれたのは5、6人だった」等と言っていた(これは絶対ホラだと終わって分かった)。そのせいで「あそこまで行けば降りられる」という逃げの気持ちなってしまって、たどりついたらアッサリ下車、押して上るが凄くつらい。上の方でよろよろこいできた後続に抜かれる。やはり乗ってみるべきだった。悔しい。全員が上り終わるのを待って下山、下でリザルト発表と表彰式。とにかく初入賞、銅メダルとリンゴひとカゴを貰った。しかし下車したのがいつまでも悔しくて、2週間ばかりは何度も再挑戦しに行こうかと思った。
●7-5●
この月はめずらしく<いぬふぐり>で11日・早稲田、14日大泉樹林公園と立て続けに合同練習。みんなのページにとっくに書かれていたけど。次レースは12月12日の99kmなのでぼちぼち長距離もこなしておこうと、14日は18km走って皆と合流、30kmの模擬レース的練習のあと新宿に行き TOTO の部品センターで台所のカランを買ってぶっ飛ばして所沢まで帰って総走行98km。しかし80kmあたりから右腿がつり気味、90kmで足首がつる。帰宅、シャワー、昼食後ヒルネをしようと横になったらあちこちツリまくりドスンバタン、ギャア、という有り様で猫に迷惑がられる。
しかしめげずに3日後多摩湖で75km、この日はつらなかったが尻がしびれて辛かった。なんだかんだしつつCOILのツアーなどもあり12月。4~5日のCHAOS の合宿の初日のみ途中まで参加。清瀬~多摩湖~青梅~奥多摩湖。皆はさらに奥の丹波山村まで行くがこちらはここで引き返し走行110km。8日、早稲田で50km走ってもう12日に向け万全。
翌9日もいぬふぐりの何人かと早稲田で走ることになり独りコースに向かっていると、目的地近くで左のブロック塀の切れ目から車がアタマを突き出してきて、うわっと叫びつつ激突してしまった。身体はボンネットを飛び越え左肩から着地したが頭は大して打たず腕も動いたのですぐ自転車を見るが無惨にもフレームがヘッドチューブのところでポッキリ折れてしまっている。病院やら警察やらで一日つぶれてしまったが頭をよぎるのはレースに出られるかということばかり。それにしても家にやっと帰って当然会長のケータイから(俺は持っていない)「練習に現れずにどうしたんだ」という留守電が入っていると思ったのにそんな事は無く、全く他人の心配をしないヒトだというのが分かった。だいたい2、3年前に会長のバンドのライブを忘れて俺が家にいた時も全然電話かけて来なかったもんね。
そんな有り様でまだ3日後だというのにレース、しかも99kmである。左肩は大きく動かしたり着替えだとかクシャミなんぞすると激痛が走る。前日、果たして耐えられるかどうかマルイシ・スリッパ号で12、3km走ってみるが、まずダンシングはダメ、またブレーキング時にフロントから伝わる僅かな路面の荒れがゴンゴン響く。しかし10月の世界選手権で序盤に転倒・負傷したバンデンブルックは見事先頭集団に復帰、260kmを最後まで優勝を狙える位置で活躍、7位ゴール。その後両手首骨折が判明したのだ。この程度じゃやめられん。翌朝3時半自宅を出るが俺の車はマニュアルなのでシフトチェンジも大変で手前に引くのが出来ないので1~3~5という乱暴な変速で玉川サイクルまで行き、会場のツインリングもてぎまではみどりさんに運転してもらう。
さて9時15分、355名がどばーっとスタート。1.5 km のショートコースを2周後、4.8km の本コースを20周。第2集団だと思われる24、5人のかたまりで走る。5周目会長を周回遅れにする(ピットインしてウィンドブレイカーを脱いでいたそうだ)。40km位までは集団内で平均速度は37~38km/h だったが、ふっと車間が空いてしまったら空気抵抗とぼちぼち来ていた脚の疲れから脱落。7分台だったラップタイムも8分台に。10周目50kmあたりでタマさんとタダシの背後にせまり、いきなり「わっ!!」と叫んで周回遅れにしかかるが思い直して暫く同行して体力を温存することに変更。なんだかつられたように10人以上も後ろに連なる。そうなると勝手なもので口には出さないが「おめえら俺らより若いくせに何やってんだ、タマにばっか引かせやがって。交替してやれ!!」と自分を棚に上げて思うのである。やがて離脱、先行する。60kmあたりでは9分台、アベレージ30~31km/h に落ちてしまったが気分は良く、あと40km走れるんだ、と嬉しくなるが80kmあたりから回せなくなってきて軽くつり始めの気配がして来た。それまでフロントはアウターのみだったのについにインナーも使い出す。ついにラップは10分を越えアベレージ26~27km/h まで転落。
こんなにツライ時にタマの逆襲にあう。タマさんのページから無断転載;「残り6周で力(つとむ)に追いつくが集団からははじかれ匡志、力と3人で周回していると、ラスト3周で再度パン吉君に接近。3人はできるだけ気配を消し、下りで一気にパス成功。これでほぼ1周の差は有るものの周回遅れではなくなった。」なんて酷い仕打ち。チームのエースをアシストするという、ロードレースの基本が分かっていないヤツラだ。そして最終周回、残り3kmにしてついに両脚とも太ももとふくらはぎがこむら返り状態の世にもひどいツリ方に陥る。停まってマッサージをしようとしたが(すでにコースのあちこちにそういう人々がいた)停車することも出来ない。つっぱった脚で激痛をこらえてゆるゆる回す。ラスト300mがまた更にひどくなり泣きそうだったがここまで来てリタイアってのはないだろう。3時間06分31秒、なんとかゴールラインを通過するが止まれない。大分過ぎた所で脇に寄るが左足を地面についたまま動けず右足はペダルから外すことさえ出来ない。少し動くと新たな箇所がはげしく痙攣する。10分以上も誰にも見向きもされずそこで引きつりまくっていたのだった。ようやく右足をペダルに付けたままフレームに跨がった状態で、左足で地面をそっと蹴りつつピットにたどりついた。勿論左肩だって本当はヒビでも入っているんじゃないかと思う程後半は痛んでいたのだがそれどころじゃ無かった。今思い出してもオソロシイ。順位は総合143位、クラス(40代56名)22位、いぬふぐり内(7名)1位。なんと総合優勝は50歳の大塚先生、2時間31分17秒でありました。
まあこうして99年最後のレースは終了。その後は怪我(全治4週間の強度打撲、ナントカ筋断裂)の具合や仕事がやや忙しかったこともありそのまま本年の自転車の道も終わったのだった。迷いに迷った MOSER の後継フレームは清水の舞台から会長とタマさんに突き落とされ PINARELLO の旗艦モデル<PRINCE>に決定。発注から納車まで半年とも言われているのにどういうワケか翌日玉川サイクルに入荷してしまった。私の来シーズンはどうなるんでしょう。