第1章:自転車への道:1997

第1章:自転車への道

 1986年頃、FUJIのマウンテン・バイクを手に入れた。まだアウトドア・マニアの連中ぐらいしか乗っておらず、近頃のようにそこいらじゅうをモドキが走っているような有り様ではなかった。当時は八王子の浅川(多摩川の支流)の近くに住んでいたので河原~まだ芝生なんかで整地されていない、雑木林やヤブ、岩場といった自然に近い状態だった~を走り回ったり、車に積んで行って山で走ったりしていた。そのうちなんだか街にMTB が見る見る溢れだし車も四駆だらけになって来てキャンプ場も騒がしくなってしまった。で、元来天の邪鬼の俺はあまり乗らなくなり、オフロードに行くこともなくなった。

 所沢に引っ越してからスイミング・クラブに通うのにオートバイを使っていた俺は、だいたいせっかちでプールサイドで準備運動なんかしてられないので自転車で通えば無公害、低燃費、ウォームアップと、一石三鳥になることに気がついたのである。やがてプール以外にも色々設備の整った新しいスポーツジムに移ったのであるが、96年の暮、かみさんがジムに行ったついでに横にあった雑貨店でスリッパを買ったのが運命の分かれ道。頼みもしないのに店の人が申し込んでくれた商店街の抽選会で知らないうちに電動アシスト自転車が当たっていたことを後日電話で知らされた。この年式までは結構な値段で定価14万位だったが、どう見ても乗りたくなるような物じゃなかった。受け渡しに商工会から指定された自転車店の、こずるそうなオヤジに下取りするようもちかけて僅かな追金を払ってマルイシ・エンペラーのRX100仕様のロードレーサーを発注した。ブレーキレバーがチェンジレバーを兼ねるようになっている進歩が近年あったことなど知る由もなかったがそれは単なる町の自転車屋のオヤジも同じで、いやあ組み方がわかんねえんだよ、と催促した電話口で言われてようやく手に入ったのは正月休み明け。しかしレコーディング期間中だったので一度近所を走っただけで一月の半ばを過ぎた。

 ある日、仕事仲間というかなんというか、俺の参加している<緑化計画>というバンドのリーダー、チェリストの翠川敬基氏にスケジュールの打ち合わせのFAXで、彼がMTB でレースをやっているのは知っていたから、いいだろー、と自慢げに書いておいたら早速連絡。なんとロードも始めたので稽古をつけてやるから一緒に走れというではないか。そして忘れもしない一月二十日、我々は狭山湖下で待ち合わせた。まず、<狭山湖入り口>の信号から狭山湖へ上っていくが当然どんどん離される。そこから一旦下るので少しは持ち直すがユネスコ村への上りは 600m ばかりだがド素人には超激坂である。必死にこぐがどんどん速度は落ち蛇行してしまう。心臓は飛び出しそうだし膝はガクガクだ。ピークの手前20mで断念、押して上る。この時は何も知らなかったがフロントのインナー42T、リア12~21T という重いギアしか付いていなかったのだ。後で雑誌を読んだらツールでプロが使っているのより重いのだと分かった。しかしこの時の屈辱をバネに今日の、仲間内では小手指パンターニ、略してコテパンと敬意をもって呼ばれる私があるのだ。結局この日は多摩湖の回りを走りつつ翠川氏に色々教わる。しかし翌週、あの屈辱の坂を独りゼイゼイ上ったり下りたりしている新米ロードマンがいたことは言うまでもない。