第2章:ロードレースへの道 :1997.1~4.

第2章:ロードレースへの道 :`97.1~4.

 そして始まったトレーニングの日々。早くも4月6日の修善寺CSC チャレンジ・サイクル・ロードレースを目標にする。すこしずつレーサー・ウェアも購入。しかしなんと言っても寒いからそうそうは走らない。二月末までで280km。また、2月27日、初めてチーム<いぬふぐり>ロード部の面々と顔を合わせる。会長・翠川、事務局長でチーム最強の玉川譲司、ロード部長・松嶋緑女史という顔ぶれで奥多摩湖畔車をデポ、周遊道をひたすら上ったのだ。勿論リアは12~25Tに交換済み。始めの5、6kmは玉さん、会長らはかろうじて視界にあったがやがて全く見えなくなりそれからは本当につらかった。頂上までの12.5km におそらく一時間十分近くかかったのではないか。玉さんは二往復していた。えー、参考までに、この年の9月には48分台、翌98年9月は43分台です。 そして奥多摩の帰りには青梅の清酒「澤乃井」の直営店「ままごと屋」でベロンベロンになるというチームのしきたりも学んだ。気が付くと家の前なので楽である。3月はひたすら多摩湖のまわりを計580km走る。そしていよいよデビュー戦。

 1997年4月6日、伊豆、修善寺サイクル・スポーツセンターは見事な雨。9時からの17歳以下、30代の昨年上位者のレースを見るがリタイヤが続出しており不安がつのる。おまけに会場中見回しても俺のマルイシが一番安そうだ。高校の自転車部の連中からしてコルナゴ、ピナレロ、コッピなど高級イタ車ばかりに見える。こちとら齢43にして開始2ヶ月半でのデビュー、睡眠2時間、おまけに雑誌によればクローズド・コースとしては日本で一番キツイところだって言うでないの。もうシラン。さて、午後になってようやく40代クラスのスタート。我々は5kmのコースを3周の15km。まわりはベテランばかりでキンチョーする。雨は小降りになった。60名の出走者が10人ずつ並び、ゼッケン22の俺は3列目だというのにスタートしたとたんアレヨアレヨという間に押し退けられるように後退。初の集団走行は、こ、こわい。それでも最初の上りでは集団のまん中あたりで抜きつ抜かれつ。前の方にいた我が会長も抜いてしまったが調子にのってオーバーペースだったか次の上りで抜き返される。もう一度抜いたのだがまたどこかで抜かれ、その頃にはもう、頭はガンガン、息はゼコゼコ、脚はガクガクで<リタイア>の文字が頭上にちらつく。難所の<心臓破りの坂>に至るともう、こんなことがあと二回も出来るんだろうか、なんでこんな苦しいことをやってるんだろう、等という思いばかりである。そのあとのメインスタンドまでの下りの高速コーナーでなんとか持ち直し二周目に入るがすぐに苦しくなる。もう他の選手もチラホラしかいない。しかしここで終わったらほぼ一周を回収トラックの荷台でサラシモノになって戻らなければならない。それだけを気力のもとに走る。タマさん、緑さんが坂の脇で声援をくれる。そしてなんとか三周目。これでようやくトップに周回遅れで失格という脅迫観念から解放されたがもうヨロヨロだ。何度も足をつこうと思ったが持ちこたえ、よろけながら心臓破りを越えて最後は死ぬ気でスパートして散ったのである。 こうして終わったデビュー戦は49位、39分25秒40(えー、参考までに、98年は68名中33位、99年17位)。レース中はもうこんなことするもんか、と思いもしたのに翌日もう郵便局で次に出場するレースのエントリー費を振り込んでいる俺であった。