第3章:Dクラスへの道 :1997.4~11

 第三章:Dクラスへの道 :`97.4~11

 相変わらず多摩湖の廻りを走りまわったり、友人から貰った、粗大ゴミに出してあったのを拾ったという三本ローラー台でトレーニングしている日々だったが、レース以来ムクムクといいバイクが欲しくなってきていた。 とりあえずMAVIC のディープリムCXP30 で新たにホイールを組んでしばらく物欲を抑え込んでいたのだが、とうとう五月半ば我慢出来なくなり、イタリア、モゼールのアルミフレームをオーダー、パーツはデュラ・エースでタマさんに組んでもらう(実はタマは新座市野寺「玉川サイクル」の店主だったのだ)。初レースの時は会長の車にみんなで乗り、イイモン順に車内に積んでいったからマルイシは土砂降りの中、ルーフキャリアで泣いていたのだがこれで一挙に俺様のバイクがチーム内最高級車になっちゃった。あとは鍛練のみ。
 しかし、五月二十五日のエンペラー・カップには組み上げは間に合わず、まあ主催が丸石だからそれもいいと思ってマルイシで出場。これも年令分けで四十代のエントリーはリスト上148名。公道レースでロケーションは良かったものの 2.7km という短いルートを8周。実力別じゃないからこの短い周回では終わるまでにトップに追い付かれ失格というのは確実だ。事実、完走わずか57名だった。72番手で走行中に失格を言い渡された俺はアタマにきて帰宅後まっ先に我がマルイシのフレームから <EMPERROR>のロゴを剥がしてしまった。 そして六月一日、モゼール完成。正直なハナシ、初めはサイズ以外あんまり違いがわからなかったが気分はイタリアン・レーサー。徐々にセッティングも煮詰めて確実にタイムは向上した。しかし八月まで仕事が忙しくて距離は延びず、レースも日程が合わず出られない。 九月に入り、久々に<いぬふぐり>で奥多摩に出かける。この時は会長、タマさん、それに仲間からコルナゴを格安で手に入れたMTB乗りのツトム少年との四人。上り始める時にデータをメモしていて遅れたのが原因で少し先の交互通行の工事現場で俺だけ一分以上も停車させられたが頂上では会長とツトムに20秒遅れで到着したので実質俺の勝ちだ。いやあ、進歩したモンだ。帰りは当然ままごと屋でべろんべろんになった。次のレースが翌月、平均勾配9%という川場村のヒルクライムなので、この月はその対策として一人でもう二回上りに行きタイムアップを図る。そして十月十一、十二日、JCRC 第9戦・川場大会。会長を始め、いぬふぐりのメンバーは俺の華開いたクライマーとしての才能に恐れをなしたのか、出ないというのでカミサンと武尊温泉に宿をとる。
 JCRC(日本サイクル・レーシング・クラブ)のレースというのは最上級の S からA、B、C、D、E までの実力分けクラス行われ、初参加者は F というクラスで走った結果で次回からの出場クラスが決まる。また各クラスの上位六名は昇級、下位六名は降級される。これらと別に女性のW 等もある。初めての俺は初日はF 、とはいってもこの日は個人タイムトライアルだからクラスは関係ない。距離は7kmと短いが平均9%ということは場所によっては12%ぐらいはあるワケでなかなか厳しい。20秒ごとに311人が走る。スタートして1、2kmはきつかったがだんだん身体が慣れてくる。とはいえ勿論苦しい。またしても、どうしてこんなツライことを、という思いが浮かんでは消える。前半に二人、後半に一人抜いたが十四、五人に抜かれたろう。結果は241位。Dクラス認定のラインの35分を34分12秒でクリア。この日のトップは元ヨーロッパ・プロの市川雅敏氏で22分21秒、速い!!           

 さて翌日はいよいよクラス・レース。9:10スタート、60人位の中程に並んでいたのに左のクリートがいつまでも入らず、始めから上りだから失速してしまい遂に止まってやり直す。やっと走り出すとビリから二番。えいクソっ、と五、六人抜くがすぐ疲れてしまい何人かに抜き返された。あとはマイペースでひたすらゼイゼイ上るのみ。前方に見えていた集団もばらけ始め何人かをパスする。やがて10分前にスタートしていたE の選手もポツポツと落ちてくるが先行集団にはとても加われないので孤独なレース。やっと見えてきたゴールに、なんとか35分を切りたい気持ちとカミサンのカメラにうまく写るようにと、先にスタートの前を行くE の二人を必死に抜いて飛び込む。もう吐きそう。49位、ジャスト35分だった。昨日の市川氏にも驚いたが本日トップはサラリーマン山岳王の村山利男氏(38)で驚異の21分台。
 で、こうしてDクラスの下のほうにしがみつくことになったかというとそうではなかった。次のJCRC は同月二十六日のツール・ド・嬬恋。受付締切りの時点ではまだJCRC未参加だったワケだからF で参加申込みをしていた。当日でも本部で申請すれば良かったのだがよく仕組みの分かっていない俺は、敬愛する会長もF なんだからイイか、とそのまま出場。自動的に川場での認定は無効になった。さて、ここは浅間高原の農道を使った一周11.5km の起伏に富んだコースで我々F-2クラスは二周23km。出場出来なくなってしまった緑さんが夏だかに下見をしていて詳細なマップと高低図を作っておいてくれたので、それを元に作戦を立てポイントになりそうな坂の地点、長さをビニールテープに書き込みハンドルに貼る。会長と共に160名の前のほうに並んでスタートするがどんどん割り込まれアッというまに四分の三ぐらいの位置にさがる。押しの強い会長はずっと前の方で見えない。しかし 3.8kmの最初の上りで追いついて、せんえつながら「つらいねえ」と声をかけ先行させていただく。会長の後談では俺はすぐ見えなくなってそれきりだったそうだ。アシストしなくて済まん。そもそも<いぬふぐり>は協力するよりまず身内に勝つことを優先する風潮があるからなあ。会長の人柄だろう。しかし次に現れた2kmの上りは厳しかった。抜きつ抜かれつ、川場より楽なはずだと言いきかせてのぼる。短い下りコーナーの後の 5,600 m のきつい上りで最高地点になりここから4km近い下りである。ガンガンこぐものの上りで抜いた連中に抜かれてしまう。会長も下りは滅法速いので背後が気になるが現れない。そうして二周目に突入。この頃になると同じ顔ぶれの5、6人と、上りで抜いて下りで抜き返されることの繰り返し。最後の下りでは必死に踏んで 68.5km/h をマークするが三人のかたまりに抜き去られ全く追尾できない。結局ゴールは単独。

リザルトは158名中86位、50分09秒。後日の通知で、悔しいことにこの日のD の認定ラインは50分だったことがかった。俺より2分04秒遅れ、104位の会長と共にE クラスに所属することになった。82位の選手は50分01秒だったから俺よりもっと悔しかったろうな。俺より下位の十代、二十代も30人以上いるようだったからまあいいか?始めた時には、二年後には互角に走りたいと思っていたアコガレの会長に勝ってしまった俺は美酒にグデグデになったのであるが、今度は D 昇級を目指して翌々日からトレーニングを再開した。そうそう、会長の名誉の為に言っておくが、十一月の西湖のレースではこちらが39秒の負け。あそこはほとんど平らだからな。