第4章:Dクラスへの回り道 :1997.12~1998.前期

第四章:Dクラスへの回り道 :`97.12~`98.前期

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 さて、97年のシーズンは終わり、しばらくのんびりしてから軽くオフトレを開始。よく分からんが冬は走り込みは軽く抑え、水泳、筋トレなどをした方がいいと雑誌に書いてあるからそうする。まあ確かに一年中ガンガン走っていては気力が持たないよな。 年も明け、一月のある日、書店で取り寄せて手に入れたのに読んでいなかった「マフェトン理論で強くなる」(ランナーズ社)をツアー先の九州で読み始めた俺は、これだっ、と思った。プィリップ・マフェトン博士なるアメリカ人の提唱する、トライアスリート向けトレーニング方法である。簡単に言うと、一般的な220-年令を最大心拍数としてそれの何%の状態で運動するかをトレーニングの強度レベルとするものと違って、180-年令を上限とする10心拍の範囲(つまりその時の俺だと180-43=137だから127~137)の低レベルで淡々と運動することによって遅筋を効率良く使う体質に変えて行き、多くの運動選手が壊してしまっている身体全体のバランスを回復させ、且つ全体的にレベルアップしていくというものだ。これによれば、ピークは40過ぎ、しかもそれ以降もある程度の水準を維持できるのだ。しかもストレッチ等の準備運動はイカンというので、用意がすんだらさっさと走り出したくてソワソワと端折った体操をしていた俺にはピッタリだ。しかし最初のベース作りの期間、つまり137をオーバーしてはいけない期間は通常四ヶ月、鍛え上げた人間でも最低10週間は必要だと書いてあるが、四月のアタマにはあのチャレンジ・サイクル・ロードレースがあるから、家に戻ってからすぐ始めても10週間丁度でレースだ。九州で毎朝、二日酔いの日は除いて、ホテルの部屋で腕立て伏せや椅子に乗ったり降りたり運動をしていた俺は、くそっ、心拍計を持って来るんだったと悔しがった。で、帰宅後すぐに自己流マフェトン・トレーニングにとりかかる。後輪固定のローラー台で、負荷を7段階の4にセット。 TIOGA の心拍計はシンプルで、ターゲットを前述の127~137にセットするとデータとして<138以上><126以下><範囲内>の時間が保存されるのでこの値とスピード・メーター上の10分ごとの走行距離を記録していくことにする。また、15分づつのウォームアップとクール
ダウンを前後に入れる。始めはすぐ心拍がオーバーしてしまい範囲内におさめると4km/10分を超えられなかったが、徐々に慣れて一週間後の1月30日には 4.05/4.11/3.98というように、概ね20分は4kmを維持、そのあとはだんだん落ちるという具合になる。外では一定の心拍で走る事など無理だし、ちょっとした坂でも140~150にはすぐ上がるからひたすら室内でぼたぼた汗を流す。 3月11日には 4.16/4.01/4.00/3.93/4.13 。しかし会長は「ほんとにそんなんで強くなるかね。だいたいマフェトン博士なんて聞いたことないぜ、出版社のデッチアゲじゃないの?」などと言う。会長以上にゼコゼコ・バクバク・トレーニングの好きなタマさんは対抗して「脳汁理論」を打ち立て、最高負荷でとにかく意識モウロウとなり脳味噌が鼻汁と共に流出するまで漕ぎまくるという荒行をやっているらしい。俺としても、このまま身体が高心拍に慣れていない状態でレースに出るわけにはいかない。ついに教えに背き、7週間にして翌日からロードに出る決意。しかしそれはそれとして事件は起こっていた。10日夜、ひばりが丘のホルモン屋で会長らと飲んだタマが帰り道ママチャリで道路標識に激突、鎖骨を骨折。しかも失神している間に先行していた会長らは気付かずに帰ってしまったという。更に、痛がりながらも骨折とは思わず翌日また一緒に飲んでいたというではないか。あの怒濤の練習が無に帰すかと思うと、俺は適当に玉川サイ
クルの方向を定めて頭を垂れて合掌したのだった。

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 そして多摩湖をメインに、奥武蔵グリーンラインと奥多摩周遊道を一回づつ、あとはマフェトン・ローラーで整えて4月5日、第23回チャレンジ・サイクルR.R.に臨む。一年振りのこのコースはやっぱりきつい。一周目の心臓破りからもう<リタイア>の文字か頭の隅に。最後の坂ではギブス姿のタマさんに「今27位!」と励まされるそばから抜かれる。先で構えられている妻のカメラの手前、よろけるわけにはいかんと踏み込むが<あと2周もこれをやるのか>と思うとお先まっくら。このコースに関しては肉体的にはともかく、どうも心理的にはデビュー戦の時から進歩がないようだ。2周目以降何度か小集団になるが、ペースメーカーに決めた選手には離され、次に決めた選手には上りで抜き下りで抜き返されるという、嬬恋同様の展開。最終周回の最後の上りで死にそうになって二人抜いたがホームストレートへの下りで一人、ゴールライン目前で一人、と抜き返されてしまった。がっくり。なんで?こんな終盤で俺より遅れて行った奴になんでそういうことが出来るんだ?と、ゴール後吐きそうになってハンドルに突っ伏しながら思う。結果は68名中33位、33分21秒46で昨年を6分4秒短縮できた。会長もワタシの敵では無かったものの、オフ・トレをせずに昨年より1分近く速かったので良しとしたもよう。昨年リタイアに終わったみどりさんも27位完走。かえすがえすも、昨年クラス13位だったタマさんの怪我が残念。
また、ロードレース初出場のツトム、飯塚君の若手二人が共に周回遅れ失格というのも残念なのだが、彼らのクラス(十代、二十代)は内部で力の差がかなり有るのに周回数が多いのでもっと細かいカテゴリー分けが必要だ。

 今年はなるべく多く参加するつもりである JCRC のレースだが、4月19日、第4戦の群馬サイクルスポーツ・センターを自分の緒戦とする。修善寺と同様のクローズド・コースで1周6kmだがこちらの方がアップダウンはこじんまりした印象。やはりここにも<心臓破りの坂>がある。 E クラスは3周18km。会長と共に前のほうに陣取るがまたしてもクリートがうまく入らずズルズル後退。修善寺ほど坂がきつくないのでなかなか集団がバラけず、タイトコーナーが多くヘアピンまであり固まったままだから結構怖いし中々前に入れない。1周目後半の上りでややバラけ会長も前方に見えて来る。4.5km ぐらいの所で会長を含め4人の集団の後ろに付き時々前に出るがワシラのレベルでも前と後では空気抵抗が全く違い、きつくて後に回ってしまう。2周目中盤の上りで前方に次の集団が見えてきたがこちらもペースが落ちてきたので意を決してアタック、なんとか一人で追い付く。第2集団だったらしく、コース脇から「ヨーシ、いいよこの集団、いけるよ!!」と声援を受けるものの、ここからが<心臓破り>でバラけていく。以降はチギレた者同士で競ったり単独になったり。最終周回ラスト2kmで一人をとらえ、いつも俺がやられるようにゴールでパスしようと目論んでいると更に一人前方に見えたためそいつがガゼン頑張り出し必死で追うが追いつけず結局3人繋がってゴール、16位。後日リザルトを見たら28歳と29歳だった。
オーシ、この次はやるぞっ。

98. 8/2 /JCRC 先頭で坂を
上ってくるように見える早川選手