アフリカ紀行 1999

’99年夏の<KIKI Band>でのケニア、ザンジバル、南アフリカ旅日記

 怪しげなサックス奏者、梅津和時の画策ででっち上げられた<KIKI Band>の面々、ギター:鬼怒無月、ドラムス:新井田耕三、ベース:早川、およびスタッフとして サウンド・エンジニア:近藤祥昭、マネージャー:多田葉子
という6名は1999年7月8日、シンガポール経由でアフリカ大陸を目指したのであった。シンガポールのHardrock Cafe での30分の飛び入り演奏も大好評のうち、ワシラはどうなるんだろうか。

その1:準備は着々             (7月2日)

 アフリカ行きの準備に本日購入したもの:虫除けジェル2本、旅行用洗濯ロープ、アイマスク。両替とトラベラーズチェックを作ろうと思っていたのにヒルネしたら忘れてしまった。
 よく考えたらデジカメはいくら15MBの媒体でファインモードで100枚以上撮れるとか消せばいくらでも使えると言っても私の場合携行するノート・パソコンを持っていないから溜まった画像を吐き出せない。3週間100枚というわけにもいかんだろう。記憶媒体の、例えばCF というのは15MBで定価\15,000、30MBで\24,000だから今回のためだけに何枚も買うのは馬鹿らしい。どっちみち持っていくつもりだった古い一眼レフ+50mm,400mm レンズとコンパクト・カメラでいいや。

その2:やっと帰れた             (7月28日)

 いやはや、遠かった。肉くいあきた。ナイロビは過ごしやすかったがザンジバルは暑くヨハネスブルグは寒かった。ナイロビとヨハネスは物騒なので外出は殆ど車で運動不足、ザンジバルはよく歩いたがすれ違う人びと全部と「ジャンボ!」と挨拶するのと迷路のような市街、朝の4、5時からいっせいに複数のモスクからそれぞれ違うコーランが同時にスピーカーから鳴り響くのにまいった。

ナイロビ・ナショナルパークをサファリ。幸運にもここではあまり出会えないライオン、サイを見られ、おまけにダチョウの求愛ダンス、交尾にまで遭遇。出発前々日に持っていくつもりだったカメラが壊れているのに気付き、急遽祖父の遺品のOM-1(オリンパスが初めて出した一眼レフ)を出してみるが内蔵露出計の電池を買いにいったらもうその型はとっくに生産打切
り。しかし途中のシンガポールで同行のミキサーでカメラ・マニアでもある近藤さんがその電池を発見、助かる。というワケで上の写真はOM-1+Sigma400mmで撮ったもの。勿論プリントはもっとキレイです。

その3:ナイロビ:7/11~16

7/18のナイロビのヘラルド紙を昨日もらった。
ワカル?一番下に俺の勇姿(”Dr.Umezu and a member of his band”となっているのがちょっとなあ)。勿論全体がもっとデカい。右上の人物はショーン・コネリーだぜ、すげえだろ。そのほかナイロビの最大紙<Nation>では第一面幅一杯に4人のカラー写真。日本でいえば朝日+読売だそうだ。
ライブ翌日の朝からHeraldの記者が我々の個別インタヴューをとろうとロビーに待機していたのだが俺は前夜リンガラ・ディスコで酔っぱらってそこのバンド(セネガル・キンサシャから来ていた<RumbaJapan>というバンド。向こうではとりあえずJapanという単語はかっこいいらしい)の奴に部屋番号を教えてしまったので(一時は店内そのあたりハヤカワ連呼)、連中だったらめんどくさいなあと思って洗濯しつつもうるさい電話にずっと出なかったらその件だった。

記者にはどうも今回みたいに(というか毎度だが)経済的なことを無視して演奏活動をするということが理解しにくいらしく、ウメヅからどの位サラリーをもらっているのかとか俺がなぜいくつもバンドをかけもち出来るのか、自分のバンドの
経営はどうしているのか等、色々きかれた。バンドというものはグレン・ミラー楽団みたいにソックリ雇われるか食えないアマチュア・バンドみたいなものかしか概念がない。今回はカネのためじゃなくアフリカ、ケニアの文化を体験するために来たのだ、ともっともらしく言ったら「ケニアの文化についてどう感じたか」という困った質問をされてうろたえてしまった。 まあそれはともかく、今回のツアーの仕掛人のケニア大使館の小林さんとうら若く逞しいナイロビ在住の永松マキ嬢のコーディネイトで普通ヤバくて行けないような地区に足を踏み入れることが出来て面白かった。しかし貧富の差(元を正せばアフリカに入ってくるべきじゃなかった西欧文明)の現状には気が滅入った。スラム街ならともかく、整備された市の中心部で花壇の水たまりに顔を突っ込んでいたストリート・チルドレン。うつろな眼で言葉もなくただ手を出してくる彼等。かたやドレスアップしてホテルや高級レストランで食事をする一握りのエリート黒人たち。重い気分にさせられた。

その4:ザンジバル:7/16~21             

<1> 尾翼 にキリンの描かれたタンザニア航空機で1時間少々、正午ごろザンジバル着。暑い!!世話役の木村映子女史(スワヒリ文学研究者、「おしゃべりなタンザニア」東京新聞出版局刊:著者)とTVカメラがバンドの横断幕付きで出迎え。ナイロビと大違いののどかな南国気分でマイクロバスに乗り市内に向かう。ナイロビでは治安の悪さのせいか自転車もバイクもごく少数だったが、ここはウジャウジャ走っていてヨイ。初日は機材や会場のチェックなどに動き回ったあと、公共演芸場のような所(屋根つき舞台と露天の広場)でSanaaNgoma という、太鼓類と踊り、歌のグループが我々のために小一時間 の上演をしてくれる。シャーナイのようなリード笛のじいさんが素晴らしく、なんでも人間国宝のような人らしい。踊りもよかった。腰の動きがすごい。一旦ホテルに帰り、蚊除け対策をしてからアンプ、ドラムを借りる予定のアイランダースというバンドの演奏を見に、海辺の店に食事に出かける。バンドは序盤BGMに下手なサンタナをやったりしていて、ありゃあ、と思っていたら序々に大人しいが妙なポリリズムの曲に移って行く。3曲ほどそんな感じで休憩。話したらやはり最後の3曲はオリジナルだそうだ。次のステージでは威勢のいい格好の女性シンガーが二人加わったものの、タイタニックのテーマやらなにやらを酷い音程で歌い黒人にこんなに下手なヒトがいるのかと感心していたら2、3曲後からリンガラ・バンドに変身したとたん彼女らの音程もバンドのノリも 豹変。さすがのアフリカンであった。

<2> 二日目の朝食後、ひとりでオールドタウンを歩き回るが迷路のようになっていてさっぱり道が分からなくなる。面白いが、うるさい土産物屋を振り切ってもぐるぐる回ってまた出くわしてしまいそうだ。腹が減ったので海辺に出て屋台のハンバーガーを草むらに座って食べていたらボロボロの観光パンフレットを持った奴が向かいに腰を下ろし、これからどういうプランなのか、明日はどうするのか、安いツアーを用意しよう等と言う。俺はここに友人がいるからお前はいらん、といくら言っても立ち去らずあげくに自分も空腹だからハンバーガーを買ってくれという。半分ほど食ったが肉が生焼けだったのでそいつに渡して歩き出しまた迷路に戻る。

 さて、午後洗濯をしてベランダに干そうとしたらドアに鍵が掛かっている。フロントに言ったら暫くしてショールをかぶった大女がニコリともせずに黙ってズカズカ入ってきた。抱えてきた鍵のいっぱい入った引き出しを椅子に置き、かたっぱしから鍵穴に突っ込んでみては床に投げ捨てていく。実は鍵にはそれぞれリボン状の布がついていて部屋番号が書いてあるのだ。おそらくハジメにどこかの部屋でたまたま合った番号違いの鍵を使い始め、これを永年繰り替えしてドアと鍵の組み合わせが滅茶苦茶になったのだな。古い国営ホテルなので設備はともかく部屋数は多い。しまいにゃ引き出しをひっくり返して中身をソファーにブチまけ、やっと合う鍵が見つかるまで、ガシャン、ガシャンという音を聞きつつ無言大女に怯えていたのだった。思えばこれは能率という概念の無いザンジバル人を象徴する出来事であった。

<3> その夜は翌々日の公演場所の<ンゴメ・コンヴェ>に下見を兼ねてイベントを見に行く。<オールド・アラブ砦>という、1710年頃建てられた要塞で今は内部が野外舞台とすり鉢状の客席、その回りにカフェバーという様相。初日に見たような踊り、歌、太鼓類のグループの演奏が客席上部のスペースで行われた後、本ステージでターラブというものが始まった。男性ヴォーカル、キーボード2人、ベース、ギターに打ち込みリズムで、なんというかアラブ歌謡なのだが信じられないようなチューニングで、ギターは勿論のこと、キーボード2台が全くずれていてタマげた。それはそれで面白いのだがツラくもあり早々に切り上げ、屋台などを覗きつつぶらぶら帰る。ホテルに帰りつくと、隣接した学校の講堂のような集会場で盛大な結婚式をやっていて弦の入った大人数のバンドが演奏している。ベースもアップライトだ。これが本来のターラブだそうで、大勢踊っているがよく見ると着飾った女性達だけだ。この晩は女性だけの宴で朝まで続くという。そうとは知らず踊りながら突入しようとした梅津氏はすげなく追い返され、我々は窓から見物、録音。周囲にはやはり羨ましそうに10人前後の男達がたむろしていた。

<踊りのバックの打楽器陣を観察するドラムの新井田耕三氏>

 翌日は朝、アラブ砦の先の船着き場からボロ舟に乗って3kmほど沖のプリズン島に渡り海水浴、午後は木村さんの本にも出てくる親友の大臣夫人宅で彼女の盛り沢山の美味しい手料理で満腹になる。

<その料理と、一つで全てを作り出す土間の小さい炭火コンロ>

 夕方にかなり町から離れた小さな村に招待され、そこの村人達の素朴なターラブを聴かせてもらう。打楽器類とヴァイオリン3本、アコーディオン、それに木箱と棒にガットを張ったジャグ・スタイルの一弦ベース。一曲ずつ歌い手が交替、8曲あまりを演奏してくれた。終わってからベースを弾いてみたが全然うまく鳴らせず。それはともかく、彼等の楽器の粗末さにひきかえ我々のいる国営ホテルの一室には2、3年前に日本が寄付したと言う楽器類:ヴァイオリン10本、チェロ2本、コントラバス2本が全くケースを開けた形跡もないまま「大切に」保管されている。鍵のかかった閉め切られた部屋で蒸されているのだ。なんてこった。

<4> 7/19。午前中、<ザンジバル文化フェスティバル>開会式の会場である陸上競技場を下見に行く。ここではタンザニア本土のNo.1バンド、その名も<TOT>(Top Of Tanzania)の機材を借りることになったのだが「ん~、これか。」とアンプに手をついたらハコがぐらぐら。午後2時半頃改めて会場入りするが3時に始まる筈なのに気配無し。観客も少ない。TOT がダラダラと演奏を始めると音に誘われだんだん人々が集まって来る。サウンド・チェックなどというものは行わずこうしてテキトーな演奏をして人を集めるのがこちらのやり方だという。それにしてもいい加減な「哀愁のヨーロッパ」やデタラメな「枯葉」のボサ・ロックをやったりして、これが本当にNo.1バンドなのかよ。で、今度はお前らが何かやってくれというので交替。結局2回ずつやる。4時半頃やっとお偉方がそろったところで TOT がリンガラを始めたらこれが大迫力で同じ連中とは思えない。民俗衣装の男女10人のダンサーまで加わって観客も盛り上がる。先日の<Irelanders>といい、これがアフリカンというものなのか。気が付けば観客は凄い数である。ダンサー達が引っ込んでヴォーカルの大男がステージから飛び降りて、いかにもセクシャルな腰振りオドリをするとスタジアム中ワアーッと大歓声。その後開会宣言らしきものがあり、女の子が二人出て来て歌ともコーランともつかないようなものをアカペラで延々やる。後できいたら詩の朗読だったそうだ。そしてTOT のメンバー何人かが楽器を持ち替え、洋装に着替えた先程のダンサーの女性達が歌ってターラブがこれまた延々。やっと出番がきて15分足らずに2曲詰め込む。言うなればヘンなジャズなのに予想以上に反応がいい。
 それからは、文化フェスということで様々なものが陸上トラックを廻る。まず布地等の手工芸の人たちがトラックの荷台の上で作業をしながら作品と共にゆっくり3組廻り、そのあとは歌や踊りのグループが演奏しながらパレード。槍と楯を持って体をエンジン・オイルの廃油で真っ黒に塗ったグループの踊りが大受けだったが伴奏がトランペットとバスドラに太鼓類という妙なもの。他も面白かったが音はごちゃまぜで出場グループも切り無く出てくるので6時すぎ会場を抜けホテルで休んでから夜のライブのアラブ砦NgomeKongweへ向かう。
 結局PA機材は日本の寄付したもの、アンプとドラムも日本からのNGOのものを使う。近藤さんは大活躍で、全然そろっていない接続ケーブルを作ったり、貧相な65W のベース・アンプに3台スピーカーをくっつけて低音を出すシステムを作ってくれたりと朝から休みナシ。おかげで大好評のうちに終演するが、2バンドのコンサートの筈なのにとうとう対バンのリンガラ・バンドは現れなかった!!後日わかったのだが彼らは政府から頼まれたのだから機材を運ぶ車が来るだろうとただ待っていたという。担当の役人もバンドが来ないからといって慌てるとか連絡を取るという感覚がないのだからスゴイというか羨ましい。ああザンジバル。

<5>翌20日午前中、一人で行っても迷ってしまうので木村さんの引率でゾロゾロ買い物。カンガという、女性が体に巻く布やスパイス類を買う。もちろんかなり安い。ホテルに帰って昼食をとるが貧相な小さい骨付き鶏が2片と山盛りのフライド・ポテト。どうもフェスティバルが始まって泊り客が増えるに従って食事が粗末になって行くようだ。
 夜の公演はCCM ソーシャル・ホール。立派な名だがカフェ&アパートの4階建ての建物の裏庭のようなコンクリート敷きの広場で、奥の塀側に30cmぐらいの高さのステージがありそこだけトタン屋根が付いている。どこからかプラスティックの椅子を運んできて並べているが500用意する筈なのに140~50ぐらいを後の方に並べただけで人手が消え、仕方なく我々で前方に扇状に並べ直す。まん中に一つだけ皮張りの椅子があり、エライ人が座るのでそこから前に並べてはいけない等と馬鹿げたことを言っとる。やがて人が集まり出すがあまり芳しくない。梅津氏がテレビのインタビューなどでこの<KIKI Band>の名を、ケニアの小林さんのアドバイスで「キパーラ(ハゲ)、キニョンガ(カメレオン)、キケウゲウ(なんというか、忍術のドロンドロンというようなものらしい)」と説明しているお陰で、路上やホテルでやたら「キニョンガ!!」等と声をかけられるからもっと人気があると思ったんだが。しかしそれは、あの皮張り椅子に座る大臣が来るまで政府関係の招待客以外の一般人を入り口でストップしているせいだった。なんとアホくさい。これがまたもったいぶって遅いんだな。昨日の開会式と同じだ。もちろん木村さんなどがヤイヤイ言っているんだが。まあそれでも大幅には遅れずにスタート。しかし1曲目でギター,ベース・アンプの電源が切れる。ギターの鬼怒はアコースティックに持ち替えたが俺はしかたなくソデにあったコンガを持って来てポコポコ叩く。なかなか復旧せずえんえんこの1曲を続けたがなんとか直り、後は大丈夫だった。で、当然公演は大成功。終演後文化庁No.2 の女性、ハジジャの家で彼女の料理をご馳走になる。サモサや肉ジャガコロッケ、カレー2種、チャパティなど。イスラムのせいで女性はあまり外にでないから料理がうまくなるというのは木村さんの説。しかし彼女はN0.2 と言っても最近まで工芸学校で木工をやっていたというから人事はいい加減らしい。早々にスタッフ分の食事をタッパ等にもらいホテルへ帰り、早朝出国に備え荷造り。近藤さんは改造した配線類を元に戻すのとギターアンプ(初日に壊れた)の修理で徹夜。しかし今まで虫よけジェルと鬼怒から分けてもらった蚊取り線香のおかげで殆ど蚊に刺されずに来たのに最後の最後、今日の会場で刺されまくった。ステージ上で一人当たり2個の線香を炊きスプレーやジェルを塗ったのに腿や頭などを布の上からだった。果たしてマラリアは大丈夫だろうか。

その5:ヨハネスブルグ:7/21~25

<1>ザンジバル出発の朝、7時半にホテルを発つので7時すぎにレストランにいったら<朝食7:00~10:00>と書いてあるのに閉まっていた。チェックアウトを済ませてからコーヒーだけでもと20分頃再び覗いたがまだ開いていない。ザンジィやなあ。空港では珍しい、かつての銭湯の体重計のようなアナログの計量器に荷物をのせる。つま先で懸命にハカリの台を押し上げ少しでも軽くしようとするが60kgオーバーで大もめ。ハジジャと木村さん、マネージャー多田の三女傑が長々と談判して解決するが、今度は通関するのに空港税を払えという。チケットには支払済と明記されているのを梅津が指摘するも女性係官は動じず。日本で払ってあるのは分かったがとにかくここで払えと押し問答。頑として我々を通さないので仕方なく一人当り20ドル払う。係官は、領収書をやるから日本で払い戻しを受ければいい、と言い張るのだが一体誰が払うんだ、そんなもの。と、まあ最後までザンジバルらしく出発。
 南アフリカ・ヨハネスブルグに4時間余りで到着、初めての海外駐在で一ヶ月目という大使館の新妻氏の運転で市内へ向かう。全然アフリカという感じではなく完全なヨーロッパの町並みだ。気温も低い。道中、時計を買いにショッピングモールに行ったら隣の店のピストルの方が安かったとか今年に入ってから警官が数百人単位でリンチで殺されているとか物騒な話を聞かせられた。とにかく外は歩かず近くに行くにもタクシーを呼んで下さいとのことだ。ホテルに入って遅い昼食と打ち合わせのあと部屋で洗濯をしたりツール・ド・フランスの放送を見たりして結局夕食もホテルで済ませて一歩も外へ出ず。市の中心部の筈なのに外は人通りもない。しかしさすが南アはワインがうまい。

<2>ヨハネスブルグの会場はマーケット・シアターという、小劇場、ライブハウス、カフェ、レコード屋などが広場を中心に集まったエリアだ。まず昼間インタビューを受けに行った。車も入れず、ヤバそうなやつらも近付かないようで外のテーブルにいる連中が陽気に「オー、ジャパン、サダオ!!」と声をかけて来る。ナベサダのことだ。やや悲しい。白人のおばさんから取材を受けつつ、ここらへんで暮らしている猫がテーブル上でコーヒー用ミルクを皿にもらってぴちゃぴちゃ。暗く物騒な雰囲気のヨハネスのなかでここだけ別世界のようだ。

 歩行外出禁止の助言を少々無視し、鬼怒と近藤さんとでホテルから2ブロックの大きい楽器店に行った。朝8:30~夕方5:30までという営業時間は日本じゃ考えられないし入口に厳重な鉄格子があるのもモノモノしい。日本のIbanezやそこそこ有名な韓国製のギター類が多かった。地階にはP.A.システムも展示してあり近藤さんは音を出してもらっていた。鍵のかかった隅のコーナーにはFender、Gibson、Musicman、Ibanez等の高いものが並んでいて中に入れてもらったが日本と変わらない値段だ。別の日に新井田さんとまた行ったが結局鬼怒がブルースハープを買っただけ。
 あと自力で出歩いたのはすぐ近くの中古カメラ屋。近藤さんはマニア心をくすぐられ通っていろいろ迷った上、格安でレンズを購入。
 夕食はホテル以外となるとどうにもならない。なにせここいらの有名ホテルが次々と閉鎖されているぐらいで夜は人が寄り付かないからまともな店もない。忠告に従い20km位離れた巨大ショッピングモールにタクシーで行く。ここは豪華絢爛でレストランも沢山ありイタリアンにした。まあまあ。
 さて演奏は2晩同じ会場で、ゲストにギター&ヴォーカルのBeki Koza を迎え3、4曲一緒にやった。物静かな大男でバークレイ音楽院に学んだこともあるそうだ。太く柔らかな音を持ち、ほわ~んとした独特の雰囲気があって良かった。例えば、梅津や鬼怒のあとにベース・ソロをやるとなると二人とも吹きまくり弾きまくるから俺もつい音数を多くしようとしてしまう。しかしベキは淡々と、我々のように起承転結の習慣にとらわれずに展開させて行く。スピード感のあるフレーズも長短自在に現れるが、かといってそれでぐいぐい押して盛り上がってソロを終えるということもなく再び漂って行ってしまったりする。全く自然な流れで、彼のあとにソロをとるのは気持ちが解放されたようですごく楽だった。レコード会社などのトラブルにあっていて、現在は南アのジャズ・ミュージシャンを集めたオムニバス盤で一曲が聴けるだけだと思われるがいずれいいアルバムを作ってくれるだろう。演奏は大好評で、来年の Soweto でのフェスティバルに是非来てくれと関係者も興奮気味。
 そうそう、昼間Soweto にも行った。人種隔離政策と貧困の象徴であったそこは、部外者の目には区画整理されて巨大にったのどかな集落のようにも見えてしまう。しかし虐殺や武装蜂起の記録はコンテナを使った資料館に展示してあり、またネルソン・マンデラの軟禁されていた小じんまりとした住居の壁には多数の弾痕が残っていた。
 実を言うと、シンガポールで買った粗末なメモ帳につけていた日記をもとにこのページを書いてきたのだが、南アの一日目までしかその日記がないのだ。筆の遅いあいだに記憶はモヤモヤになってしまい物事の順番がよう分からん。カメラの持ち歩きもヤバイとさんざん言われているうち写真を撮る気も無くなったから記憶の手がかりも少ない。というワケで、突然だが・・・演奏後食事ができる店がなかなか無くて困った。困ったのは私ではなく大使館の新妻氏だけど。チャイナタウン、といっても町外れの暗い道の両側に中華料理店が5、6軒ずつ並んだだけのところなんだが、なんとかその中の一軒がまだ開いていて最後の晩にうまいものが食べられた。もう店の人たちが食事を始めている閉店同様のところだったので注文したものは全部は出てこなかったが。ではアフリカよ、GOOD NIGHT。

その6:帰国

 てな具合でまたまたシンガポール乗り換えの長旅でやっと帰ってきた。いろいろ書き忘れたおもしろい話、いい話も後から出てくるんだけどね。俺以外の三人は音楽的収穫も多かったようだし。梅津さんはザンジバルのチャルメラ名人から御教授を賜ったし新井田さんも色々なドラミングを習得、鬼怒君もいろんなミュージシャンと親交を深めた。それにひきかえ、俺はどうだったのだろうか。

付記:
 その4<ザンジバル>-4 での競技場でのこと。TOT のステージの後ろに機材を見に行った時、演奏中のドラマーがこっちを向いて新井田さんにいきなり「Are you drummer? Stick,give me stick.」と言ってスティックをぶんどった。それまで彼は料理の菜箸みたいな物で叩いていた。かく言う私も翌朝ホテルでベースマンに弦をくれと頼まれ、そろそろ張り替え時だったので使っていた弦を外してやった。さらに翌日役人にも弦が欲しいと言われたが、役立たずの奴なので断った。
 無事帰国とは言え、成田に着いたら鬼怒のアコースティックギターが出て来ず、シンガポールに取り残されていた。そういえば往きにもやはりシンガポールでベースが行方不明になったが30分位で発見されたのだったな。

<終>