第4章:Dクラスへの回り道 :1997.12~1998.前期-2

第四章:Dクラスへの回り道 :`97.12~`98.前期

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 翌五月は21、24日と立て続け。まず21日が JCRC 第5戦、富士スピードウェイでの100分レースだ。先頭選手が100分前後でゴールラインを通過した時点で各選手のその周を最終周回とするもの。タマさんは医者に適当なことを言って「サイクリングならいいでしょう」と、許可を取ってきて JCRC初出場。また、みどりさんのダンナ、正彦さんも出ることになるが新マシン購入で目移りしていて機種選定が間に合わず、ローラー台据え付けの我がマルイシ・スリッパ号を貸し出す。会長車に5人で朝4時に新座を出発、FISCOに5時50分着。この日はここでインターナショナル・レースのTour of Japan の第4ステージがあるので殊更に出走時間が早く、7:30だったのだが更に突然10分繰り上げられレース時間も90分に短縮されたらしいが慌ただしく良く分からないまま、約460名がクラス順にスタート。最初から結構なペースで大集団だ。 1周 4.47km 、1周目終盤の上りで先にスタートの D と混ざった集団が二つ形成され第2集団に位置、伸び縮みしつつ5周目に入る頃までは 2,30m 先に前の集団も見えていたが次第にばらける。
45分、6周目を走行中にゆるい上りでS、A、B から成るトップグループにパスされるが、長い集団がザーっという音をさせ
凄いスピードで行ってしまう。半周後にセカンド・グループに抜かれる。このコースはテレビで車のレースを見た感じではそれ程の起伏はなさそうだが、実際自転車で走って、しかも何周もするとやはり坂は坂、きつくなって来る。右のふくらはぎもつってしまった。10周目に二回目のパス。この時、第2集団に必死で付いていったらアノヒトを周回遅れにしてしまった。シケインでは付いて行けるが上りでは全くレベルが違うので邪魔にならぬよう離脱。やがてトップが14周目に入る時点でラスト周回になりこちらは12周 53.6 km を1時間31分で終了となった。降りるととにかく尻の筋肉が痛くてまともに歩いたりしゃがんだり出来ない。ヨタヨタと片付け、車でコンビニに行き食料とビールを入手、再びコース脇に戻り小宴。Tour of Japan のパドックをうろうろしたりする。初来日のイタリアのチーム、Cantina Tollo は昨シーズンは俺と同じフレームを使っており応援していたのだが今年ランキングが上がったのと一緒にマシンもPinarello にグレードアップしてしまったので常々文句を言ってやろうと思っていたのだが「あ~、キャナアイ テイク ア ピクチャア?頑張ってね。」等と言ってしまうのであった。それにしてもガイジン選手はデカイ。カッコイイ。勿論小柄な選手も他のスポーツよりは多いしカッコ悪いヒトもいるが。こういう連中に混じってヨーロッパで、しかももっと上のチームで走っていた今中や阿部ってスゲーんだなあ、と変な感動の仕方をしてしまう。やがて始まったレースを、フェンス越しに草むらのなかから観戦するが、素面の松嶋家にひきかえ、燒酎をガンガン行き始めたあの二人はパンツ一丁になりやがてそれすらも取ろうとするのでホントは30周134km のところを4、5周を観て帰路につく。後日の通知で通常の上位6名の他に16位までを条件クリアで昇級する旨、13位だったので念願の昇級はあっけなく決まってしまった。そうと分かってりゃあ、俺もパンツ姿に・・・。タマさんはBクラス認定の快挙。

 さて、僅か二日空けでまたレース、昨年失格の因縁のエンペラー・カップだ。今回は会長と二人。 昨年のコースに直線路を付け足しUターンして戻ってくるようになっている。やはり去年の多量失格者はマズイと思って距離を延ばしたのだろうが無理矢理の感がある。11:20スタート、2列目に並んだがいつものようにズルズル後退してまん中あたりになるが周回半ばの上りで前に出る。このあたりから第1、第2集団が出来、第2にへばりつく。次の長い上りでばらけるが湖畔に出てまた集団。このあとも棒状に連なったりばらけたりするものの、案の定付け足された Uターン路で毎周詰まって集団に戻ってしまいなかなか展開しない。最終の5周目で前方のトップ集団がペースを上げ離され始めたので4、5人で飛び出し前を追うが結局Uターンのところで捕まる。このあたりの力の配分はアタマを使わにゃあいかんな。そのあとの二つの上りで大分ばらけ湖畔に戻ってからは必死に踏み続け、最終コーナー後二人をかわし、修善寺の二の舞いはゴメンなので死ぬ気でスパートしてゴール、全然止まれずそのまま 3,400 m 先でブッ倒れ状態。というわけで、自分としてはかなり充実した内容だったと思い込んでいたのだが後日送られてきたリザルトを見たら全くたいしたこと無く96名中44位でガックリきてしまった。

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 6月はJCRCの三宅島と新潟があったのだが三宅島は仕事の都合で出られず、新潟は平地のクリテリウムらしいので俺には不利だから出場を見合わせた。その間、[CycleClubCHAOS ]の富士スバルラインのヒルクライムや小沢峠のトレーニングに参加させてもらったり、いぬふぐりで奥多摩や奥武蔵グリーンライン(顔振峠、刈場坂峠)を走ったりした。シーズンイン後もマフェトン・トレーニングは続けており、例の10分ごとの距離というのも浮き沈みはあるものの順調に延びていた。
 そして7月12日、昨年はツアー中で出られなかったミヤタ・カップ。今回はJCRCとの共催となったので昇級後初のDクラスのレースになる。4月19日同様、群馬CSCで3周だ。9時、約140名のスタート。大集団のままタイト・コーナーを進んで行き、ブレーキ指示のかけ声や怒号が頻繁に飛び交う中、前方で1台転倒。幸い巻込まれはなかった。2周目でいくつか上る内にやっと周りが減ってきて6、7人のかなり伸び縮みのある集団になるが付いて行くのがやっとで前には行けない。しかし最終3周目の心臓破りでペースが落ちたので、まだ早いとは思ったがつい飛び出してしまった。しばらくはリードを広げていたが上り終わってのバックストレートではズラーッと後ろにつながっていたようでラストの左コーナー後6、7人にまとめてパスされた。もう全く余力がなくて追いつけぬままゴール。結果は84位。E で出た4月より2分20秒速かったの
に半分以下なのだから前途多難である。